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3. 桑鶴地区

ヒアリング調査

  • 高木神社で、水神祭が毎年4月15日に行われていました。

  • 水神祭は5地区くらいで持ち回りで実施しています。

  • 過去、高木神社で奉納相撲が行われていました(写真1、2)。

  • 各地から相撲取りが来て、出店もでており、大変にぎわっていました。

  • 祭は水神市と呼ばれていました。

  • 3年ほど前から、水神祭は簡素化し、御供え物をし、拝むのみとなりました(写真3)。

  • 大肥川の安全や水に関することで水神を祀っています(写真4)。

​​写真1 高木神社 本殿

​​写真2 高木神社 相撲の土俵

​​写真3 桑鶴地区の水神 お供え物あり

​​写真4 桑鶴地区の水神の位置

歴史文献調査

 桑鶴地区の水神は、大肥川に沿った川平地区に祀られています(図1)。ここでは、桑鶴地区を含む大肥川沿いの地域(大字鼓)の災害の特徴を明らかにします。東峰村では、平成29年7月九州北部豪雨の際、死者3名、負傷者2名の人的被害に加え、土石流による家屋の流出や浸水などの甚大な災害となり、大肥川沿いの地域でも、流木を伴った大肥川の氾濫や土石流の発生で国道や農地が大きな被害を受けました。明治時代まで遡ってみると、過去の災害の特徴と類似していることがわかります。即ち、その地域では、その両側にある山岳の谷筋からの大量の雨水と土石の流入、それに伴う大肥川の氾濫によって、過去に何度も災害が起きてきました。また、大肥川の氾濫とともに、梶原地区にある谷筋上流の斜面崩壊とそれに伴う土石流が明治時代以降に3回も発生し、近隣地域で深刻な災害を引き起こしています。その発生箇所は、地元の方への聞き取り調査によると、図5の谷筋2の上方と推定されます。『小石原村誌』には、その崩壊を「梶原の大崩(崩壊)」と表現しているので、これ以降、その表現を使います。

 梶原の大崩は、明治時代以降の記録によると、1889年(明治22年)の豪雨で発生し、対岸の木城地区とその下流の川平地区で深刻な被害を受けました。その後、1930年(昭和5年)にも2回目の梶原の大崩が発生したため、1936年から8年をかけて砂防工事を実施しましたが、1945年(昭和20年)にも再び発生して、砂防施設とその完成記念碑が破壊されました。その後2年間も梶原の大崩が断続的に続き、斜面が崩壊するたびに、谷筋で土石流が発生して河道閉塞(大肥川の堰き止め)を引き起こし、対岸の県道、建物、水田などを破壊し、近隣地域に深刻な被害をもたらしました。

 以上のように、桑鶴地区を含む大肥川沿いの地域の災害は、「大肥川に注ぐ谷筋の土石流」、「梶原の大崩」、「大肥川の氾濫」によって特徴付けられます。その様子を記した江戸時代以前の資料は見つかっていませんが、長い歴史の中で繰り返し起こってきた可能性が十分考えられます。そこで、梶原の大崩を引き起こした谷筋を有する台山を対象にして、土石流が発生しやすい地形的な特徴を持っているかどうかを調べました。ここでは、梶原地区から台山頂上へ続く主な6つの谷筋1~6の渓床勾配を分類しました。

 その結果、全ての谷筋の合計で、土石流発生の目安となる15度以上の渓床勾配を持つ割合が86%を占め(図1、2)、梶原の大崩を引き起こした谷筋2も91%に達することがわかりました。また、台山の谷筋は、他地区の水神が存在する谷筋と比べても渓床勾配が大きいことがわかります(図3)。さらに、水神が祀られている桑鶴地区の谷筋も、急峻な台山周辺に位置していることから、他地域の谷筋に比べて大きな渓床勾配を持つ割合が大きいです(図3)。以上のように、台山は、土石流の発生しやすい地形的な特徴を持っていることから、記録が見つかっていない江戸時代以前から、梶原の大崩などが引き金となって台山の土石流が繰り返し発生してきたと推定することができます。

 以上示した災害の歴史的な背景の中で、桑鶴地区の水神が、1889年に起こった梶原の大崩を契機に建立され、それを鎮めるために祈願(龍神鎮魂の神事)が行われるようになりました。また、前節のヒアリング結果で、桑鶴地区の水神は大肥川の安全祈願のために祀られているという証言が得られましたが、梶原の大崩が大肥川の氾濫を引き起こしてきたという歴史的事実から、その水神は、梶原の大崩だけではなく、大肥川の氾濫を鎮めるために存在していると考えられます。

さらに、『小石原村誌』によると、「台山(梶原)には大蛇が住み、大蛇の怒りで山が崩れたとき、鼓谷は水の底に沈む」という言い伝えが残っています。その中で、鼓谷とは、地域住民によると大肥川のことを指します。従って、その言い伝えは、台山周辺で梶原の大崩などが引き金となって発生した谷筋の土石流が大肥川を氾濫させたことを意味します。ここで蛇というキーワードが出てきます。木曽谷の蛇抜など、江戸時代以前から、蛇が土石流と繋がっている言い伝えが全国的に数多く残っています。

 土石流に関する大蛇の記述は、東峰村の台山だけでなく、その近隣地域で、筑後川の南側に位置する耳納山地にも残っています。耳納山地も台山と同様に急峻な斜面と谷筋を持ち、歴史的に土石流災害が多い地域です。1720年(享保5年)、東西に延びる耳納山地に沿って大規模な土石流(現地では山汐と呼ばれる)が発生し、山麓の多くの村が被災しました。その一つの益永村では、石や砂、流木が襲ってきて小山を築き、田畑、家屋が流されました。その際、被災現場で動いている頭と尾がない大蛇を見て、気味の悪い思いをする人々の様子やそのことをお上(当時の久留米藩と推定)に報告したことが古記録『壊山物語』に記されています。以上のように、急峻な地形を持つ台山、耳納山地は、歴史的に土石流災害を繰り返してきた地域であることから、当時の人々の中に、土石が谷筋上流から流れ出す様子を大蛇の仕業と結びつける意識が存在していたことが伺えます。

図1 台山山頂に続く6つの谷筋、及び、桑鶴地区の水神がある谷筋の位置とその渓床勾配、大字鼓は図中の大肥川に沿った地区全体を示します。

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図2 台山頂上に続く6つの谷筋の渓床勾配のヒストグラム(6つの谷筋の合計)

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図3 台山山頂に続く6つの谷筋の標高、及び、水神が祀られている、または、水神跡がある各地区の谷筋の標高。赤丸は水神の位置を示します。

 桑鶴地区は、昔から災害が繰り返されていることがわかっています。この伝承を途絶えさせないことを目的として、地域の住民のため、次の世代のため、そこを通行する人のため、下記のような防災のメッセージを添えた看板を、現地の水神近傍に建ててみてはいかがでしょうか?

桑鶴地区の看板 イメージ図

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